「事実の報告」と「感情想像」

似ているようで違うこと

なんとなく、納得いかないことを目撃してしまったとき。
子どものころには「告げ口」と言われ、「触らぬ神にたたりなし」と、見て見ぬふりをする機会が大人になり増えているような気がする。

全てのことに正義を貫いても息苦しい。そのさじ加減は、人それぞれ。そのさじ加減の感覚の違いに戸惑うときもあれば、ぴたっとハマるときもある。だから、人間って、おもしろい。

言葉だけの、深みのない言い訳かもしれないが、
事実を報告することと、愚痴悪口は似ているが全く違うこと。

事実の報告は、意外に難しい。自分の感情想像を入れずに、状況だけを客観的に。

「知らない人ににらまれた」は、自分の感情想像。単に目が悪い方で、目に力を入れているだけかもしれない(もちろん、危険を察知したならさりげなく場を離れてね)。

黙り込んでいる人に「なぜ怒っているの?」。よくある話かもしれない。「黙っている=怒っている」は、自分の感情想像。
疲れているだけ、本当は悲しいのに、明日の仕事への不安、などなど。もちろん本当に目の前のあなたに怒っていることもある。そこで「なぜ怒っているの?」と言葉にすれば誤解も解け、原因を話し合い、おだやかな時間が戻ってくる。

自分の感情想像を挟んだ他人の分析は、ときに誤解をうむ。
自分の感情想像を挟んだ過去の分析は、ときに悲しみをうむ。

つづく

コメント